讃岐・高松 八十五番八栗山麓 お遍侶宿 讃岐屋 高柳館
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江戸時代からの宿です
弘法大師空海が開いたという四国霊場八十八ヶ所巡り、
その第八十五番札所八栗寺の山麓にある歴史の遍路宿。
百五十年もの間、お遍路さんをお迎えしてきました。
お遍路さんとの語らいの中からたくさんの人生も知恵も頂きました。
旅の人の心をやさしく受けとめたい「高柳館」です。
昭和五年頃のお遍路さん
昭和五年頃のお遍路さん

昭和10年頃のお遍路さん

ミネソタ州からおいでになったお遍路さん達

昭和30年頃の当館

 頑張る遍路宿/人情話、悲話、つぎつぎ女将

 遍路宿「高柳旅館」ができたのは、明治の初めだった。3代目女将(おかみ)、高橋キクエさんが高松から嫁いで来たのは昭 和 13年。当時は7室しかなく、多いときは30人〜40人が相部屋にな って泊まった。宿賃は25銭、宿が出すのはおかずだけで、米は遍路が持参するか“門付け”で集めてきた。
 戦前の事。40歳位のドイツ人女性が一人で遍路に来た。話を聞 いたところ、ドイツで結婚した愛媛県出身の夫が向こうで病死し、遺言で四国巡礼をしているという。「身振り、手振りでご主人の事や道中の苦労した事を話すんじゃ。神妙な顔つきでな。言葉がわからんでも、人の心は同じやと思いましたよ」
 言葉が通じないといえば、昭和19年春、島根県出雲市から来た青年がふろ場でひきつけを起こし、倒れてしまった。方言で、さっぱり話が理解できない。仕方なく、カサに書いてあった住所を頼りに電報を打つと、両親が3日がかりで駆けつけた。一家はそろってお礼に来たが、キクエさんは「あの時分は人情がありましたなぁ」と振り返る。
 最近は「部屋が狭い」「食事が少ない」と文句ばかりが多い。時代の流れか、心が触れ合う場がなくなってきている。遍路宿は年々少なくなり、ホテル並みの施設を持った寺の宿坊に圧迫され、つぶれていく。
 旅館の向いには名前の由来となった「高柳池」があり、そばに石の地蔵さんがお遍路を見守るように、立っている。
 「宿を何度閉めようと思ったか知れん。じゃが、あのお地蔵さんをほうっとくわけにいかん。戦後のどん底でもなんとかやって来られた。修行に来る人がいるうちは、頑張りますよ」と力をこめた。
 玄関口に置かれた手桶には、客が到着した時、つえを洗う水が今日も一杯に張られていた。

1989年(平成元年)10月3日読売新聞より抜粋

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